【聖堂朝礼】ステンドグラスの聖ドミニコのお話②

今日もステンドグラスのお話の続きです

 

第4章 勉学と祈り

4枚目のステンドグラスは十字架の前で祈りをささげている聖ドミニコの絵です。

ドミニコは6才か7才の頃までは、家でお母さんのホアナから読み書きを習いました。カレルエガの近くにあるグミエル・デ・イサンの教会にはお母さん方の叔父にあたる人が神父をしていました。ドミニコはその教会で算数、国語、音楽、ラテン語などを学びました。また叔父さんからは聖書を読むことを教わり、次第に「神父になりたい」と思うようになりました。

14、5才からは実家の近くのパレンシアの大学で学びました。当時はスペインで初めての大学ができたところでした。大学では人文科学と哲学を6年間、神学を4年間学びました。

そして大学時代に飢饉が起こりました。食糧が不足し、町のあちらこちらで貧しい人たちが亡くなっていました。ドミニコはそのことにとても心を痛めました。

“人々が飢えて死んでいくとき、死んだ皮の上で勉強することはできない”

その時のドミニコの言葉は今でも伝えられています。

死んだ皮というのは、動物の皮という意味です。当時の本は羊皮紙というページ11枚が動物の皮を薄く伸ばしたものに文字を書いたものなので、たいへん貴重なものでした。ドミニコは自分の持ち物ばかりでなく大切な本や聖書まで売って貧しい人々に食べ物を配りました。

 

第5章 カタリ派との出会い

次のステンドグラスは、ドミニコが泊まった宿屋の主人とテーブルについて話をしている場面です。

1203年にカスティリアの王アルフォンソ8世は、息子フェルナンドとデンマークの王女と結婚をさせたいと考えました。そこで友だちであるオスマのディエゴ司祭に婚約を取り付けるための使者になって欲しいと頼みました。当時ドミニコは司教様の相談役でしたのでスペインからデンマークまでの旅に一緒に行くことになりました。

フランスのトゥルーズで泊った宿の主人はカタリ派と呼ばれる宗教グループのメンバーでした。カタリ派とは、神様のこと、イエス様のことを間違って考えている宗教グループでした。ドミニコは宿の主人と一晩中語り合い、最終的に彼はカトリックの信者に戻りました。ただドミニコは自分の考えを押し付けるのではなく、相手の話をよく聞いて、よく理解し、共感し、その上で自分の意見を伝えていました。自分の意見は、あくまでも神のみことばによるものです。それがドミニコが行なった「対話」です。私たちもこの対話を大切にしています。

“相手の間違いを正すのは真理、つまり神のみことばを相手に分かるように伝えることである”とドミニコは、多くの異端の人たちをキリスト教に戻すなかで分かったことです。

 

第6章 女子修道院創立

 6枚目のステンドグラスは、フランスのトゥルーズの東にあるプルイユという町はカタリ派の中心地でした。ドミニコはこの地でもカタリ派の人々をキリスト教に戻させていました。カタリ派にいた女性たちは、自分の家を開放して、また自分の財産を使い、儀式の場所を与えたり、説教者の活動の世話をしていました。女性たちはキリスト教に戻ったけれど財産をすべてを失った女性たちや、家族がカタリ派なので家族の元には戻れない人もいました。プルイユのカタリ派の修道院として使われていた聖マリア教会に最初の女性たちの修道会を作りました。今でも最初の12人の修道女の名前が修道院に残っているそうです。修道院は「イエス・キリストの説教」 と呼ばれ、これが基となって、数か月後には各地に修道院が作られました。 1206年頃のことです。

聖ドミニコは、カタリ派の人たちが、自分たちが生まれてきたことを悪いことだと考えている事に悲しみを感じ、何とかしてこの人たちに、神の愛と慈しみを伝えたい、この状況から救い出したいという、とても熱い思いで活動しました。その時にも相手を大切に思い、語り合いました。私たちも聖ドミニコに倣って、自分の意見を言う時も、相手を大切に思う気持ちを忘れずに伝えていきましょう。

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