祈り

 今年のマリア祭は昨年とは違い、聖堂に全校児童が集まって行うことができました。コロナ禍で、今までできなかったことが少しでもできるようになったことをうれしく思います。昨年は密を避けるために高学年と低学年に分け、聖堂に集まりました。しかし、今年はコロナ前の環境に戻し、皆で一緒に祈りたいという先生方の願いや熱意が形になりました。皆で一緒に聖堂で過ごす時間をできるだけ短縮するために、教室で行うことと聖堂で行うことをしっかり分けました。聖堂で過ごす時間は約20分になり、今までの半分の時間で行うことができました。1年生から6年生が揃って行事を行うことで、低学年は高学年の姿から学び、高学年は低学年に見せる姿を学ぶことができます。高学年の立派な姿に低学年は影響され、聖堂での静寂や特別な空気を感じられるようになります。高学年もまた自分が他の学年の児童に見られることで背筋が伸び、立派な態度を見せなければという責任感が生まれます。毎年、行事を継続していくことで、その雰囲気を味わい、その空気が毎年行事の中で伝わっていくことの大切さを改めて感じました。
 第1部では、校内放送を各教室に流しマリア祭を進行しました。各教室で聖歌「野ばらのにおう」を歌うことはできませんが、皆が心の中で一つになって歌うことができました。6年生の先唱でロザリオの祈りを唱え、各クラスに届けられた一輪のバラの花に祈りを込めました。このバラは聖堂で一つに集められ、マリア様の冠になります。
 第2部では、聖歌を聞きながら手を合わせて沈黙の中で、場所を聖堂に移しました。聖堂ではゆりの献花と5月から子どもたちが心がけてきた目標を霊的花束にしてマリア様に捧げました。マリア祭に向けて自分で目標を立て、達成できたかを自分自身で評価し、カードに記録します。それを約1カ月の間行い、自分の行動を積み重ねる祈りの花束が霊的花束です。
 心の中で歌った聖歌も、霊的花束も、これはすべて「祈り」です。マリア祭ではこうして、終始お祈りをしているのは、いつも神さまにお祈りをささげていたマリア様に倣っているからです。「私は主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」と大天使ガブリエルに答えたマリア様はどんな思いで神の御子を身ごもり、育てる決意をしたのでしょうか。自分の感情はとりあえず横において、神に身を委ねることは、並大抵のことではありません。やはり、マリア様は特別な存在であり、神に選ばれた人なのです。聖母マリアは神の母であり、人の理想像であり、神に祈ってくれる存在です。神に身を委ねて祈るマリア様に倣い、また神に取り次いでもらえるように聖母マリアに祈るのです。
 そして共同祈願でも、1年生から6年生の子どもたちがそれぞれお祈りをしました。ロシアのウクライナ侵攻の事についてお祈りする子どもが多く、一日も早く戦争が終わるように祈っていました。小さな子どもたちにも戦争の悲惨さが伝わって、一緒に悲しんでいます。戦争によって、多くの尊い命が犠牲になり、残された人たちはウクライナの人もロシアの人も苦しんでいます。人が人の命を奪う戦争は何も生み出しません。残るのは苦しみや悲しみ、恨み、そして怒りだけです。人の尊厳をもう一度思い出し、これ以上の犠牲を払わずに解決することができるように、そして国と国とが戦争を起こさないための国家のイデオロギーを超えた「対話」ができるような世界に向かっていくことを願います。聖ドミニコがなさった、自分の考えを押し付けるのではなく、相手の話をよく聞き、相手を理解し、共感し、その上で相手の矛盾を指摘しながら、自分の考えを伝えていく対話こそが問題解決への一歩だと思います。わたしたちは「祈り」を通してウクライナの人たち、戦争で苦しんでいる人たちに寄り添うことができました。今度は苦しんでいる人たちのために自分に何ができるのかを考え、「行動」していきましょう。

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