希望をもって祈るクリスマスに

 新型コロナウイルスの広がりは勢いを増し、専門家の提言を受けて国も自治体もさまざまな面で軌道修正を迫られています。学園でも、「これからはすべての企画について、変更・延期・中止を視野に入れておかなければなりませんね」と産業医からご助言をいただき、日ごろの指導の徹底とともに、情報を共有しながら備えを強めることにしています。

 保護者会について、キャンパスの風が流れる中でお互いに顔を合わせることのできる会を準備しておりましたが、今シーズンもオンラインに変更させていただくこととなりました。せめても個人面談では直にお会いして、子どもたちの「今」を共有したいと思います。

 待降節に入り、教会の暦での新しい一年が始まりました。子どもたちは主のご降誕のお祝いにお捧げする霊的花束を準備しています。6年生はクリスマス会での聖劇に向けて、役割ごとに分散しての練習を始めました。

 神様はどこまでも人を愛してくださいます。預言者を通して神様は、いつの時代にも良い道を示してくださっていました。それに気づかず、あるいは自ら背を向けて神様の愛を受け取れない人々に、その思いを人の子として、この世に主イエスを送ってくださいました。

 その受け手としての大役を託された少女マリアにとって、それは突然の出来事でした。その日その時を知らず、戸惑いながらも少女マリアは神様にすべてを委ねる謙虚さのうちに受け入れ、大切な宝物を預かりました。そしてそのご降誕の喜びの知らせは、謙虚に生きる羊飼いたちに初めにもたらされ、「来たれ友よ」の歌詞にあるように、喜びを独り占めにせず、出会う人々にこの喜びを伝えました。彼らの存在と行動はそのまま、今のクリスマスにつながっていきます。

 

 「その日、その時は、だれも知らない。天のみ使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる。気をつけて目覚めていなさい。その時がいつであるか、あなたたちは知らないからである(中略)家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、わからないからである(中略)すべての人に言う。目を覚ましていなさい」

(マルコによる福音書13章)

 

 この聖書の一節は、教会の暦での最初の主日に朗読される箇所です。十字架にかけられる少し前に主イエスは、闇が訪れるその先に光が灯されること=天に昇られた主イエスが再びこの世に来られること=を弟子たちに伝えています。ここでは、人々がその光に浴するその日その時をご自分でさえ知らない、神のみぞ知る、だから謙虚さのうちに「目を覚ましていなさい」と語られています。教会の一年はこうして始まります。

 嬉しい出会いも悲しい別れも、私たちはその日その時を前もって知ることはできません。それを頭ではわかっているつもりであっても、目を覚まして日々備えておくのは実に難しいものです。地震や豪雨などの災害、コロナ禍、そして故人との別れ。日頃充分に気をつけていても「その時」はわかりません。「あの日が最後だと知っていたら…」「あの時に手を差し伸べていれば…」という思いにとらわれるような場面は、私たちの日常にいくつもあります。今すぐ手を差し伸べようと行動に移すのか、気づいているのに何もしないのか。いただいた喜びを分かち合おうと行動するのか、それを独り占めしようとするのか。それを選ぶのは私たち一人ひとりです。

 主イエスのご降誕は、弱い私たちに贈られた、神様からの光のメッセージです。社会的に弱い立場に置かれていた羊飼いたちは、謙虚さのうちにそのメッセージを受け取り、進んで喜びを分かち合いました。

 コロナ禍によって分断や格差という現代の暗闇に改めて気づかされた今、希望をもって祈り、寄り添うクリスマスになりますように。

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