私たちの拠り所

 改めまして、残暑お見舞い申し上げます。
 それにしても、暑い暑い夏でした。梅雨明けの後は強い日差しにさらされて、殆ど雨が降らなかった東京。子どもたちから届いた夏の葉書の中身は例年とは様子が違っていて、「今年はおばあちゃんの家に行かれませんでした」というものもあり、帰省もままならなかったこの夏は、知事の呼びかけがあってもなくても、子どもたちには「特別な夏」となってしまいました。「おうち時間」という単語が葉書に書かれたのも今年が初めてです。
 感染症の広がりと並行して、熱中症対策を呼びかけるニュースが多く流れました。気温の特に高かった地点の表の中に、過日の豪雨で被災した町の名が見えると心が痛みます。
 また海外でも同様に、自然災害に困惑しています。中国やインドでも豪雨による洪水で町が水浸しになり、涼しいはずのスコットランドでは豪雨による土砂崩れで列車が脱線しました。アメリカでは高温のために起こった山火事から避難を強いられた街もありました。
 いつもの夏と違う。多くの人々がそれぞれの場所で、まさに地球規模で違いを実感しているのでしょう。いつもなら、今までだったらという物差しで比べてしまう私たちは、これまでの「自分の」経験を一つの「拠り所」として現在位置を確かめます。「平年と比べて」今が、ここが普通であるのかどうかを「科学的に」考えます。そして経験にないことに遭遇すると戸惑い、原因を他者に求めがちです。いち早く元通りにと願い、できればもっと快適にと欲を出してしまうのが私たちの弱さなのでしょう。「苦しい時の神頼み」などと言いますが、事故や災害が起これば「やはり神などいないのだ」と言い募る。自分の物差しだけを当てはめてしまうような物言いは、弱さの表れと言えます。
 学園の理事でもある渋谷教会の田中神父様は、聖ドミニコの祝日(八月八日)の翌日のミサで、弟子のペトロが嵐の湖で怯えて助けを求める場面の一節を用いて、私たちが気づきにくい視点を指摘されました。イエスは、困難な問題を拭い去るために来るのではない、困難の中を前進するための拠り所となるために来られるのだ、という視点です。いつも共にいてくださる主への信頼のうちに、困難にあっても前進する心が、大人である私たちにも確かなものになっていきます。
 今回の新型ウイルスや熱波を通して、私たちはいくつかの気づきを得ることとなりました。こうなってしまったのは誰かが悪い、これから先は誰かが何とかしてくれる、という立ち位置ではなく、きちんと手を洗うのも、消毒するのも私たち。日陰に入ろう、水を飲もうと声を掛け合うのも私たち。その積み重ねによって、困難にあってもお互いを守り合うことができる現在位置に私たちがすでにいる、という気づきです。確かな拠り所、確かな物差しを心に留めて「今」を、「ここ」を大切にしてまいりましょう。
 さて、学園では夏休みの期間中に大掛かりなメンテナンス工事がありました。大型クレーン車が何種類も登場して、高い屋上や狭い地下通路にある大型の機械が取り替えられ、また第一体育館の天井工事も順調に進みました。夏休みの大幅な短縮に合わせて当初の計画を組み直してくださり、いずれの工事も職人の方々がお盆休み返上で取り組んでくださいました。何気ない学園風景に溶け込んでいるご苦労を感謝して過ごしたいものです。
 この暑さははまだ続きますが、皆様のご協力をいただいて、健康な子どもたちの集う二学期が始まります。登下校の方法や在校中の過ごし方など、随時工夫してまいります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

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