卒業式

皆さん、ご卒業おめでとうございます。

そして保護者の皆様、本日はまことにおめでとうございます。

6年間、学園の教育活動にご理解とご協力をくださり、おかげさまで今日の卒業式を迎えることができました。ありがとうございます。また、委員の皆様にはコロナ禍の中にあって卒業記念となる企画の数々を丁寧に紡いでくださり、感謝しております。一昨日の体育館でのひとときも、限られた短い時間の中で皆さまの温かさに包まれました。

卒業生の立派に成長した姿は、お父様お母様のあふれる愛情の賜物です。ますますのご活躍をお祈りいたしております。

 

そして62回生の皆さん、入学式から今日まで、たくさんの友達や先生方、そして何よりご家族に支えられて今、この日を迎えることができました。忘れずに感謝の言葉を、それぞれに贈ってくださいね。

小学校卒業という節目をきっかけに、振り返ることもあるでしょう。初めてランドセルを背負った日のこと、給食をおかわりしたこと、グラウンドで転んじゃったこと…

この6年間、皆さんはよく遊び、よく学び、そしてこの1年は今まで経験したことのない日々の連続でしたが、それでも学校全体を盛り立ててくれました。予行演習がない中で運動会を成功に導いたこと、練習の難しさを乗り越えてやり遂げた聖劇とハレルヤコーラス、ほかにもありますが、皆さんの底力を見せてもらいました。どうもありがとう。

 

それにしても、と思ってしまうのは、皆さんも大人たちも同じです。休校措置で始まったこの1年のもどかしさは確かに、「今までだったらできたのに」と、ついついこれまでとの比較の中でマイナスばかりを考えてしまいがちです。

 

みんなで声を合わせて聖歌を歌って、お祈りをすることで一日が始まっていたのに。

楽しくおしゃべりをしながら給食を食べるひとときがあったのに。

ジャージが汗まみれでも、がっちり身を寄せ合ってスクラムを組んでいたのに。

誰とでも、気軽に握手できていたのに。

…なにも、よりにもよって今年こんなことになるなんて。

 

新型コロナウイルスの影響は、「あって当たり前」だと思っていた毎日の営みが、一つひとつありがたいことだと気づくことになった、あるいは力ずくで気づかされることになった、大きなきっかけとなりました。

 

先週、ある高校の卒業式を取材したニュースを見ました。インタビューを受けた高校生が「学校なんて面倒くさい」とずっと思っていたけれど、休校になってから「早く学校に行きたい」「学校は大事だ」と思うようになった、と答えていました。学校にはいつでも行かれる、と当たり前に思っていた頃は「今日くらい休んでもいいかな」と考えたのかもしれません。ですが、そうではないと実体験した休校措置の期間、学ぶ時間、友達や先生と過ごす時間の大切さ、ありがたみを強く感じて、考える物差しが自分中心であったことに気づいたのでしょう。

明日会えないかもしれない。その気づきは貴重です。気づいたら、今を丁寧に過ごせます。

 

皆さんは3月末日まで小学生。そして4月からは中学生になります。進む道をそれぞれの「ものさし」で考えて、選んで、ご縁をいただいて、まったく新しい道を歩み始めます。そこでは、小学校時代を思い出して「今までだったら」と比較することに何の意味もありません。皆さんだったら、新しい暮らしを切り拓いていかれるでしょう。

 

先の大戦によって日本が焼け野原になったあと、生きるために必死に働いてくださった世代があり、今の私たちがいます。日本の復興の歩み、経済の成長過程の中で、学校の仕組みは良くも悪くも「みんな同じことを同じだけ学べるように」整えられました。そのうちに大人の社会と同じような数字の物差しを当てて、比べることで、もっともっとと誰かに追い立てられるような勉強の仕方が広まって、そして、偏差値という目盛りで人を、学校を比較することがいつの間にか「普通の」風景になってしまいました。でも、その物差しに「神さまの温かく柔らかいまなざし」はありません。

人は一人ひとり、違うタレントを持っています。学校もそれぞれの志に違いがあります。

たとえばこの学園も、聖ドミニコに倣うことを通して神様に心を向け、イエスさまとともに歩む学びを深めています。他者を大切にして、他者とともに歩む学びを今まで以上に深める中高時代を経て、その進路は実に豊かです。ですから学園の中学に進む道を選んだ皆さんを誇らしく思います。そしてもちろん、別の道を選んだ皆さんも、それぞれの場で自分のタレントに気づき、伸ばして学べることでしょう。祈っています。

 

皆さんが、何かを考え、何かを決めるときの「ものさし」は、何でしょうか。恐らく数字の物差しではないと思います。それよりもお父さまお母さまの後ろ姿、友達の声、先生の助言などを無意識に物差しにしているのではないかと思います。そこに比較の目盛りはありません。

そして、皆さんの心には、「聖ドミニコ」という物差しがすでにあることに気づくでしょう。必要とされるところに足を運ぶこと。困っている人に手を差し伸べること。多様な意見に耳を傾けること。孤独な人に声をかけること。…トレーニングプログラムによって身に着けたことではなく、この学び舎で過ごすうちに身に着いたこと、それが物差しの一つになっていることでしょう。

 

第一部のミサで、私たちは「平和の挨拶」をかわしました。そして神父様に「留まりましょう。主の平和のうちに」と祈っていただきました。主の平和のうちに留まっているなら、誰かのために私を用いる行動に移すことができると思うのです。

「平和に過ごす」には「喜び 祈り 感謝する」、そして「良いものを大事にし、悪いものから遠ざかる」こと。それを自分で考えて、判断し、行動に移していくのは簡単ではありませんが、神さまが望んでおられることに「良いもの」があると知っている皆さんですから、その実りをこれからも少しずつ蓄えて、今はまだ出会っていない誰かに「与える人」であってほしいと思っています。

 

祈りのある学校で学んだことの意味を、今はわからなくても、やがて深く理解する日が来ます。これからの毎日、たとえ思い通りにならない日があったとしても、神さまが望まれる平和の道具となって家族にも友達にも、これから出会う人にも、「すでに世の光である」皆さんが今までしてきたように、これからも光を届ける人であり続けてほしい。そう願っています。

 

最後に、66年前にこの学園を始めるときからずっと力を注いでくださった学園理事のメールマリアベネディクタからのメッセージをお伝えします。

 

「聖ドミニコ学園の卒業生として 誰かに幸せにしてもらうことを待っている人ではなく、

あなたの周りの人を幸せにする人になってください」

 

このメッセージの中に、学園が大切にしている物差しが入っています。

 

静かに聞いてくれてありがとう。皆さんとの出会いを感謝しています。これからのご活躍を、お祈りしています。

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