聖人列伝 -ドミニコ会の聖人・福者のご紹介-

聖トマス・デ・サン・ハシント・ヒオジ・西六左衛門

聖トマス・デ・サン・ハシント・ヒオジ・西六左衛門

 平戸行月の代官であり、松浦鎮信の重臣、籠手田家の家老であるガスパル西内記(玄可)を父に、ウルスラそいを母に、トマス・デ・サン・ハシント・ヒオジ・西六左衛門は1590年、次男として生まれ、幼児洗礼を授けられた。
 12歳の時、長崎のイエズス会のセミナリオで本格的な信仰教育を受けた。彼は、教授達だけでなく学友達からも純潔と慎み深さと穏やかさに定評があった。その頃、両親と長男ホアンは、松浦鎮信の棄教命令に反し、信仰を守り続けたため殉教した。卒業後、伝道士として、宣教師たちを助けた。

 1614年11月7日、折からのキリシタン追放令によって、マカオに追放される。1620年、彼が30歳の時にマニラに移り、サント・ドミンゴ修道院に入った。当地のトマス学院で著名な学長であるドミンゴ・ゴンザレス神父、哲学部長フランシスコ・デ・パウラ神父の指導下に哲学と神学の勉強を始めた。1624年、教授達の勧めもあり8月15日ドミニコ会修練院に入った。天使的博士に対する憧憬とポーランドの宣教師聖ハシントの精神を倣って、トマス・デ・サン・ハシントと名乗る。やがて初請願を宣立し、司祭に叙階。1626年から1629年まで台湾で宣教。その間、日本帰国の好機が訪れるのを待った。

 1629年スペイン海軍の協力により、石垣島に立ち寄り、同年11月10日、長崎に上陸した。

 しかし、幕府のキリシタン捜索の網は全国に厳重に張めぐされていった。スパイの数も増え、五人組の制度は徹底し、宿主となるものはいなかった。しかし、その中にあって、広島で実弟に会い、大阪へ向かう途中で、棄教者を立ち返らせながら、信者に秘跡を授け、再び、九州に戻り、トマス西神父は大村地方で働いていた。ところが、ホルダン・デ・サン・エステバン神父が重病になったという風聞を聴き、困難の末、神父を探し当て、看病した。

 聖ドミニコの祝日を祝うため、心の準備をしている時に、ホルダン神父と共に、ついに逮捕された。そして、長崎奉行に引き立てられる。

 1634年11月11日、二人の神父は、81名の信者たちと共に牢から出され馬で市中を引き回され、西坂へ向かった。丘の上には、二人の神父のために穴吊しが用意されていた。二人は馬から降りると、西坂の土地に躓き接吻した。

 西坂の土地は、殉教者たちの血によって聖なるものとされているからである。

 彼らは大きな声で別れの挨拶をし、信仰宣言を唱え、後穴吊しをされ殉教した。

 1987年10月18日、ヨハネ・パウロII世によって、日本人初の女性の聖人二人とともに列聖された。教会暦では9月28日が聖トマス西と十五殉教者の記念日である。

文/中高教諭 柏木信昭